フォトンベルトを抜けた先

自作小説をぼちぼちと。

#02 彼

 ILHENの管理下に置かれたこの街で、実は管理の目を逃れる方法があるらしい。この街は周囲を山に囲まれているが、その山の向こうへ行った者は誰もいないという。山の向こうに何があるのか、これを知る者も誰もいない。この街ではILHENの管理が行き届いているが、それもこの街だけということらしい。街の情報が集められているデータベースにも、山の向こうについては記されていない。アクセスができないのではなく、データそのものが存在しないようだ。だがILHENは、街から出ることを禁止しておらず、情報統制もしていない。にもかかわらず、街の人口は変わらず、行方不明者も出ない。それだけ、この街には十分すぎるほどの物資と、環境と、サービスが整っているのだった。

 彼の名は、杜若霊弐という。この街に大学というものはないが、21世紀でいうならそれくらいの年齢だ。経済活動にベーシックインカムを採用しているこの街では、毎月生活に最低限必要な資金が配られるため人々は特に働く義務がない。そのため彼は、毎日を自由気ままに生きるリバティストと呼ばれる人間の一人だった。

 彼は探偵をしていた。しかしILHENの管理の下、居なくなる人も、無くなるものもない。犯罪が起きることもない。それでも彼は、探偵をしていた。実際のところ探偵というより、カウンセラーに近いのかもしれない。毎日のように彼の処を訪れる人は、何かしら悩みを抱えている。それがどんなに些細なことでも、彼は丁寧に聞く。聞いて、解決策を考えたり、アドバイスをしたりする。あらゆる人の話を聞いて、その人の立場に立って考えることが、彼は好きだった。

 4月。桜の匂いに乗ってやってきたその少女は、酷く怯えていた。

「追われているの。」

何に。彼女は答えようとしない。ただ、あるところから逃げ出して来て真っ直ぐここに来たのだという。あまり詮索をすることに気が乗らない霊弐は、まず彼女を部屋に通した。

「ここにいる限りは安全だよ。」

「どうして。」

霊弐の家は山の麓にあった。ILHENによるライフラインやサービスは街中に行き渡っているが、居住区や各施設は街の中心部、資源再循環施設を中心として存在している。わざわざ何もない山に近づこうとする人は、この街にはほとんどいなかった。人目に付きにくいという意味では、カウンセリングをするのに最適であるが、一般人には用のない立地なのである。少女を追っている人間が誰であっても、真っ直ぐここに来たのであればまず見つからないはずだ。そう説明して霊弐は、部屋に干してあったジーンズとシャツを適当に見繕って彼女に差し出す。

「僕の服だけど、よかったら。」

少女は白衣のような、地の薄い服を着ていた。この時期、調整されているとはいえ気温は15℃くらい。そのままでは肌寒いはずだ。彼女は何も言わず霊弐の手から服を奪い取ると、周りを見渡す。部屋は広いとは言えず、四畳半ほどしかない。彼女が入ってきた玄関のとなりに見える台所以外に、他に空間が見当たらない。仕切りと言えるものも無い。いや一つだけ、壁に取っ手のようなものがあった。彼女がおもむろに、それに手を触れる。

「ああ、すまない。そこは倉庫だ。僕は外に出ているから、着替えが済んだら呼んでくれ。」

霊弐は玄関を指さすと、軽く微笑んで見せた。